1996「大量生産できない服」
高校を出て縫製工場に就職して4年が経ち、工業用ミシンを居眠り運転してた頃、バブル崩壊とDCブランドブームの終焉とともに縫製部門が閉鎖、会社を解雇になった23歳の春
父親の山仲間を頼ってアウトドアショップに雇ってもらいフリーターになった。
アウトドアの服は違っていた。アメリカの開拓時代に生まれたPENDLETON ハンティングウェアのFILSON ナイロン/コットン60/40クロスのSIERRA DESIGNSマウンテンパーカ 機能を追求し生きる服のデザインは、萎えかけた興味を新鮮なものに変えてくれた。
最新だと思っていたモード服とは全く違っていた。パタゴニアのレトロカーディガン ペットボトルのリサイクルフリース他、その頃出てきたゴアテックスなど機能素材にも感化されたが、昔から変わらない製法でコットンにオイルを染み込ませ防水と通気を実現し北海で働く漁師たちのために作られたBarbourジャッケットやダッフルコート、、(写真のダッフルコートはアラスカで買ったラクダの毛布で製作)
いてもたってもいられなくなって、リュックや寝袋を揃えてアラスカに服の材料探しに出た。1995年(時代はオウム真理教事件の頃)
縫製はできるようになったが、洋服のパターン作りは全くわからないので週1の休みを利用して洋裁教室に通い始めた 自分を追い込んで一年半後に服の個展をすることにしたのだ
(モデルの女性は高校の同級生 ご協力ありがとうございます)
1996年 『大量生産できない服』岐阜市柳ヶ瀬 クロッキー
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