2009 田んぼをはじめた理由
レザーの縫製工場には2年半、パリコレクションやニューヨークコレクションの縫製の仕事ができたことに感謝しています。でもその頃の自分は何かが違うと感じていた。
縫製の仕事は服作りの工程としては出口であり、また服の出来栄えを左右する工程。
職人はお金のことを言ってはいけないみたいな風潮があって、職人をなんだと思ってるんだと卑屈な思いをしていた。実はいまだに縫製仕事は分が悪いと思っている、、
ある夜、友人の奥さんから電話があり、「Eが意識が戻らんくなってしまって、、もう二週間、、」「とにかく行くわ」E家に行き話を聞いた。
Eは、頑張って大工の修行していた。それまでの適当な生活とはえらい違いでほんとに頑張っていたと思う。ある朝、行ってくるわっと言ったかと思ったら、そのまま体が震えて硬直してしまったらしい、、翌日Eの入院先に行ってみた。
彼は、震えてはいなかったが、意識はなかった。
「おーいっ、E 来たぞ、メルチが来たぞ、起きろよ」肩を叩いてみた、
一瞬意識が通じたような感覚があり、これは戻ってこれるかもと勝手に思い、病院の図書室で、なんの本だったか忘れてしまったけど、Eに読んでやった。
翌朝、縫製工場に車で向かっている途中で、急に泣けてきた。「Eが死んでまう、、」
車を路肩に止め、会社に休む連絡をした。なんだか急に力が抜けてしまった、、
なんのための仕事なんだう、、
着くとEの家族が来ていた。
なんと、意識が戻っていて、開口一番「タバコくれ」と、言ったらしい、、。
その後いろいろあって、現在Eとは音信不通ではあるが、ニュートロン(1999〜2005まで経営していたミッドナイトカフェ)の頃のように毎晩やってきてはコーラを注文してラストまでとはいかないにしても、今こそあの頃のようなEであってほしいなと思う。
何があっても生き抜くため主食であるお米を作れるようにならんといかんのではないか、
とゆう結論に達した。縫製工場の社長に話しをした。
「それやったら、すぐここやめろ ここで退社届け書け」と言われ、
そのまま事務所で退社届けを書いた。
最終日 社長は言葉をくれた。
「必死になれば食えるようになる」
今頃やっと意味が分かってきた。
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